今回から2回に分けて、協会事務局長としてではなく、今月のクリスマスイブにある鉄拳「勝烏」争奪大会の実行委員長として思いを書きます
鉄拳大会をなぜ「称号」の大会としたか。
これは自分がプレイヤーとして格闘ゲームを遊んできた経緯と深い関係があります
格闘ゲームは元祖「スト2」黎明時からプレイしてきました
時が経つにつれて対戦内容は高度化し、いわゆる「大会」と呼ばれるものの規模も大きくなっていきました
その最高峰の試合を見ていますと、どんなに煮詰めても対戦内容が昨年と同じ内容、つまり「最適解」が出てそれ以外の展開が見られないことになる、というシーンは全く現れない。常に感動のシーンは更新されるのです
2005年の「闘劇」の試合を見ているうちに思いました
格闘ゲームの試合って果たして文化として、競技ツールとして、いま日本でメインカルチャーの位置を占めている将棋や囲碁に劣っていると言えるのだろうか
むしろ、誰もが見ていて決着がわかりやすい、頭を使う、反射神経もいる、手の器用さもいる
知性も肉体的要素も精神の強靭さもいる
これは、将棋や囲碁に勝るとも劣らない。では、将棋や囲碁にあって、格闘ゲームにないものはなんだろう。
歴史?いや、そんなあいまいなものじゃなくてもっと具体的なものがあるはず
と、考えた時、それはメディアがバックについてマスに対する娯楽としての広報を打ってきたことではないか。
昔は、今ほど価値観が多様化している時代でもなければ個々に情報に任意にアクセスできる時代ではなかったからこそ、特にそれは国内に浸透したようです
つまり、平たく言って「将棋や囲碁は新聞社戴冠のタイトル戦がメジャーにした」
そのように結論が出ました
翻って、いま私は地方紙ですが、新聞社グループの中にいる
定年で退職するまでに、新聞社戴冠の格闘ゲームのタイトル戦を企画するんだ、と漠とした妄想を抱いていました
しかし、思いのほか、その時が早くきました
eスポーツ元年。それは2018年、私が38の時に現れて、いきなり年内にeスポーツ大会を開くよう、ミッションが下されたのでした
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